土浦だとか筑波山だとか、茨城県へ向けてサイクリングをしていると横切る踏切がある。関東鉄道常総線だ。
JR常磐線の取手駅とJR水戸線の下館駅をつなぐように南北に走っている路線は全線非電化。去年の終わりに自転車でこの路線を横切ったときも──
鹿島神宮へサイクリングしたときだ──、その踏切の持つ風情に立ち止まってしまった。出かけようとする先とは全く関係のない場所なのにしばし時間を費やしてしまう。
(鹿島神宮へサイクリングしたときの写真)
◆◆◆
一度この沿線を走ろう──。そのときから、というわけではないけれどかすかに引っかかっている興味だった。関東平野をゆく路線だ。山岳路線ではないから雪や凍結の心配もない。冬のあいだに訪れてみようと思った。
本日のルート(GPSログ)
僕は江戸川から利根運河、利根川とサイクリングロードをつないで取手駅を目指して走っていたがやはり輪行すればよかったとずっと後悔していた。取手への鉄道でのアプローチは乗り換えばかり多く(短区間ばかりで3度も乗り換えなくちゃならないのだ)、しかもルートが「コ」の字型になるものだから自転車で直線的に向かってしまえば時間があまり変わらない。だからとそのまま走りだしてしまったのだけど走ればその分消耗するのだ。当たり前の話である。
そんななかたどり着いた取手駅は息をつかせる余裕を与えてくれなかった。西口はあまり広くない場所に妙にごみごみと、大宮や宇都宮のような多層構造のロータリーになっていて、そこをバスや乗用車が絶え間なく走り抜けるからちょっと立ち止まろうという気にさせてくれない。
一度東口へ出ようと駅北にある跨線橋を渡った。
橋のうえからは常磐線のホームのわきにちょこんと止まった常総線のキハが見えた。
東口へ来たのはついでながら旧水戸街道沿いにある取手宿本陣の姿でも出発前に眺めようと思ったからだ。ちょっと雰囲気がいいかもと思わせる駅前からの緩いカーブの路地を抜けて旧水戸街道へ出るとすぐに工事中のため見学ができないという張り紙が目に入った。その先には閉ざされた木製の門が見える。
それじゃ仕方がないので来た道を戻り、長禅寺に立ち寄ってみる。石段を登り、山門をくぐった先にある三世堂という建物は日本に8つしかない「さざえ堂」という構造で、そのなかでも日本最古のものだという。へぇと思う。さざえ堂と聞くと会津若松にあるそれを思い出すが、あのぐるぐると回り登っていく坂道構造──それはまさにさざえの貝殻のなかのようだ──とはなっていなくて、ただ単に登り階段と下り階段が分けて造られた一方通行の階段がふたつあるだけのようだ。確かにらせん状の回廊構造は珍しく意味ある建築物だと思うけれど人の興味はいろいろだ、僕には上下それぞれの階段の解説を「へぇそうなんだ」とだけ見て石段を下った。
取手駅に戻り東口から再び陸橋を越えた。常総線のホームには別の列車が止まっていた。さあここから常総線に沿ってサイクリングをしていこう。
常総線には並行する国道294号がある。
国道294号は柏を起点に会津若松まで至るなかなかの長大国道で、これをひと通り走ってみるっていうのもそれで魅力的なプランなのだけど、今日は常総線の沿線を楽しもうという企画で来たからなるべく鉄道に沿って行こうと思う。そして駅にはみな立ち寄ってみる。
その道をルートラボで引き、GPSマップに取り込んできた。ルートは幾何学的に屈曲している。特に守谷までは鉄道に並行した道など、国道以外は皆無のようだ。
取手→西取手→寺原→新取手→ゆめみ野→稲戸井→戸頭→南守谷→守谷。ひと駅ずつ進んでいく。
守谷までのあいだは住宅街だった。びっしり建てられた住宅は区画整理されながらも決して新しいようではなかった。つまりはわりと早い時期から宅地開発され発展してきたのだろう。家は昭和のものが多く一軒当たりの区画が大きかった。茨城という場所でこれだけ古くから宅地化されているのが意外に思ったけれど行けども行けどもその風景なので疑う必要もなかった。
おかげでルートは難解を極めた。
入るべき路地を何度も見失い、Uターンを繰り返した。Uターンが面倒になりひとつ先から戻ればいいやと進んでみるが住宅地特有の構造は他からでは入り込めず、大まわりをし、ときには行き過ぎて少し戻って駅に出ることにもなった。
加えて細かいルートを引き過ぎたのか、引いた道は区画整理地のはずれに何件かある昔からの農家の私道だったり、わからずに直線で引いたルートは丘陵部のうえで行き止まり、まっすぐ続く道はちょっとした崖の下にあったりした。それらもそのたびに戻って別ルートを探して走らなくちゃならなかった。
「この先、行き止まりだよ〜」
路地で井戸端会議をしていたおばちゃんが声をかけてくる。
「駅、──駅はどっちですか?」
僕はまたかとがっかりしながら、道を尋ねてみた。
おばちゃんは親切にしかしわかりにくく教えてくれる。言われた通り行ってみると入った路地とは別に5mくらい先に別の路地があった。
そんなのばかりだ。GPSマップを見続けていても見落とす……。
これだけの住宅地を要する常総線は複線で続く。しかしながら路線が非電化であるため架線柱がなく見慣れない風景だ。複線区間は水海道まで続き、キハが頻繁に行き交う。非電化で複線化されこれだけ列車が行き交う路線はない。水海道までの区間に関して言えば、茨城のローカル線ではなく首都圏には直結しない通勤を担う路線なのだと思うのだ。横浜から出る相鉄線のような。
線路沿いの路地もなくなるといよいよ国道294号を走る。柏から会津若松か……。国道294号全線走破の旅──なんてのもいいな、などと思う。
つくばエクスプレスの高架線をくぐり、真新しくて大きな守谷駅へ立ち寄ったあと、水海道を目指した。守谷→新守谷→小絹→水海道。
守谷までと同様、線路は複線のまま北上する。とはいえさすがに区画整理の住宅街はなくなり、のどかな田園風景に変わった。
ただ、線路近くを走り続けることのできる路地がなくて、仕方なく片側二車線の国道294号で北上し、駅があるたびに駅前の道に入り込むということを繰り返した。
のども渇いてコンビニでちょっとだけ休憩した。ボトルを持ってきていないからのどが乾いたらどこかに立ち寄る必要があった。ボトルケージには輪行袋を持っているのにボトルを持っていないというアンバランス。でもこの季節、500mlのドリンクを作ってきてもどうせ余らせてしまうし、のどが乾いたら止まって休憩するくらいのプランのほうが僕の走り方には適している。
立ち寄ったコンビニから線路沿いに入っていくと、そこには南水海道信号所がある。そして奥にはたくさんの車両が止まる水海道車両基地が広がっていた。
車両基地には現在の関鉄カラーだけじゃなく、カラフルなキハたちが停泊していた。旧国鉄の気動車もいればかつて活躍していたオリジナル気動車もいた。
ちょっと見ているつもりが、信号所を通過する列車や入れ替えで入ってくる列車を見ていたら時間がどんどん過ぎてしまう。なので先に向かう。
水海道からは単線になる。列車の運用もここで分割されていて、取手に向かう運用と下館に向かう運用では同じ路線に思えないほど。
国道はちょうど車両基地の手前で大きく東へ迂回してしまったから、ここからは街なかの道を伝って鉄道沿線を楽しめる。水海道を出ると線路は大きく左にカーブした。僕はひたちなか海浜鉄道の那珂湊駅を思い出した。
水海道→北水海道→中妻→三妻→南石下→石下。
線路沿いの風景が開けた。単線の軌道は線路沿いの道に驚くほど近く、列車が来れば僕のすぐわきを通過していった。周囲の景色の広さと列車の近さによる臨場感に驚くばかりだった。列車が来るのがわかるといいな──。ちょっと立ち止まってそんなこと思う。しかしいちばん当てにできる踏切は遮断機も警報機もない、第四種踏切だった。道が横切るだけの踏切は周囲にあまりにも溶け込んでいた。
少し前から空腹を感じ始めていた。
ただ、今日は下館で食べようと思っていた。前に名前を聞いていた洋食屋へ行こうと思っていた。
下館はこの常総線の終点である。つまりは最後まで走らないと食事にありつけない。その店でなくちゃならない理由はないけれど、そうそう下館に行く機会があるわけでもなくほかに思い当たる食事もないので、ハンガーノックになりそうな予感を抱えつつもそのまま行くことにした。
単線の線路は駅の手前になるとポイントで分岐し別れる。
つまり列車交換ができるようになっている設備を持つ駅が多いのだろうけど、現在列車交換を行っている駅はどれだけあるだろう。
中妻駅の手前の踏切で僕は列車の通過を待っていた。駅を発車した列車はポイントを通過して単線の線路に入って行く。ローカル線で見かけるスプリングポイントだった。スプリングポイントは列車が通過するとバネと油圧の力で大きな音を立てて定位に戻った。むかしは僕の近所の東武野田線でも見かけた。母親の出身地だった愛媛の伊予鉄道でも使われていた。今でもそのままだろうか。列車が通過したあとのその大きな音がひどく懐かしくってうれしくなった。
片面ホームの列車交換できない駅もあった。駅舎などはなく、掘っ立て小屋のような待合室とホームがあるだけだ。常総線はSuica対応駅なのでSuicaのタッチ機があった。駅の構造物と照らして妙にSuicaタッチ機が不釣合いに映った。
右手奥にはうっすらと筑波山が姿を見せていた。
その手前には白い壁に薄緑色の瓦の城の天守が見えた。豊田城だ。戦国時代まであったその城は確か水城であったはず。天守を持っていたわけではないのに、城を復元したかのように天守を造るというやりかたは個人的には好きじゃないけれど、まあ目立つ。石下にやってきたことを感じさせる。
石下→玉村→宗道→下妻。
下妻の駅でコーラを買った。残りの距離に気づいてから、少しでも焦らなきゃと進もうとしたが身体が反対に動かなくなってきた。お腹がかなり空いていた。考えてみたら朝食でパン一枚とおかき二枚を食べたきりだ。
ボトルを持っていなかったからのども渇いていたというのもあったけれど、こういうときコーラを飲めば体が糖分に反応して少しは動けるかなと思った。
下妻→大宝→騰波ノ江→黒子→大田郷→下館。
常総線の快速で言えばラストスパートだけど距離で言うと全然ラストスパートじゃない。まだ路線距離で15kmを残していた。鉄道のようにまっすぐは走れない道路で行くと20km近くになってしまうだろうか。
下妻から下館にかけて、全般に家が多くなった。僕はてっきり北に行けば行くほどローカルになる路線だと思っていたけれど、どうも違うようだ。
かつてこのあたりは城がたくさんあった。
さっきの石下の豊田城もそうだが、下妻の多賀谷城、大宝の大宝城、騰波ノ江駅の西には関城があったとされている。いずれも沼地を利用した水城だった。天守のない城ばかりだから豊田城のような残し方は好きじゃないけれど、それ以外は何も残っていないに等しいようだった。
各所、「○○城跡」の立て看板や案内があるが、水城に見られる特有の土塁などはあまり残されていない。まあ残っていないのは仕方ないし、無理に往時を想定して作るのは好みじゃないから今の状況が僕にはいいのかもしれない。が、その看板ひとつだけであらわされると、バスガイドが「は〜い、ここにはかつてお城がありました」と旗を持って案内されるのとあまり変わらないかなとも思えた。
この常総線にはふたつの鉄道遺構があると聞いた。
ひとつは黒子駅と太田郷駅とのあいだにあった、野殿駅である。
もうひとつは太田郷駅から分岐して現在の関城町へ向かっていた鬼怒川線だ。
いずれも今の関東鉄道になる前に廃止されてしまった。
野殿駅は正直まったくわからなかった。場所の特定にはいたらなかった。
廃止は僕が生まれる前でもある。それだけの年数を経ていれば自然に帰ってわからなくなってしまっていることもうなずける。
誰かあたりに野殿駅を知ってそうな人がいれば聞いてみてもいいなと思ったが、このあたりどうも家こそあれど人はほとんど歩いていなかった。野殿駅を知っていそうな年代の年輩の方、どころか人を捕まえるだけで大変だと瞬時にわかった。
対して鬼怒川線は、太田郷駅から分岐するように走っていたから、その線路沿いの道なのだろうと確信が持てた。
緩やかな右カーブはきっとそうに違いなかった。鉄道の、半径の大きな曲線はいい。
やっと下館だ。
思いのほか長かった。いや、もっと簡単に走れるかと思っていた。下館駅に着いたとき、もう3時を回っていた。
いずれにしてもここでおしまい。
常総線の全線の雰囲気を楽しめたことは間違いない。その満足度は大きかった。ちょっと難を言えば、進みが遅くなったゆえ立ち寄りたいと思った場所をスキップしてしまったところもあったことだ。──もう少しリアリティのある計画を立てなくちゃいけない。
さあ、食事に行こう。
軽いハンガーノックで回らない脚をコーラで何とかだましだまし、そして下館の洋食屋にたどり着きはしたが、残念ながらランチタイムは終わってしまっていた。
サンビオラ──。ナポリタンにしようかポークソテーにしようか悩んだ。結局ポークソテーを食べた。