湾岸線で東扇島から鶴見つばさ橋に向けて車を走らせていたとき、工場萌えの話になった。湾岸埋立地に広がる工場の設備が夜になると照明で照らされる──それはさながらライトアップのようで、見るものの心をつかんで離さないのだという。その魅力に取りつかれた人は美しさを競うように写真をウェブ上にアップする。数が増えればやがて工場を観賞するためのツアーが生まれ、深夜帯に客を乗せた観光バスが川崎に向けて出発するのだ。
Uさんはある夏の夜、この大・京浜工業地帯に自転車を走らせた(ブログ:
[2010/08/21]川崎臨海工業地帯ナイトライド(のはずが・・・) )。明け方におよんだそのサイクリングで見たものは、すべての意味ある設備と意味ある照明が作り出す美しさだという。その素晴らしさは「萌え」概念が存在するのもうなずけるし、きれいな写真に収めようとする動機も充分理解できる、あれはとりこになるに違いないものだと言った。
そんな話をしながら向かっていた先は葉山だった。UさんとMさんとで三浦半島を走るサイクリングを企てて、ふだんなら輪行で向かうところを今日は車で走っていた。なぜ車かというと僕が寒いのが嫌だからだ。ひと月くらい自転車に乗れずにいたというMさんへの配慮として近場をとの考えのもと、そのうえ車がうまい具合に使える日だったことから、これは寒くないアプローチができると三浦半島を半ば強引に提案し計画した。
本牧から磯子にかけての工業地帯でももう一度工場萌え話をし、逗子から葉山へ抜けた。止めた車から出ると日が昇っているとはいえまだ寒かった。車の暖かな空調でダレた体はその気温になかなか慣れなかったし、屋根に積んできた自転車のステムは触れないほど冷えていた。
◆◆◆
僕はこのコースを何度か走ったことがある。つど、ちょっとしたコース・バリエーションの違いはあるけれど、葉山から丘陵部を越えて東の横須賀へと出て東海岸を南下、三浦から三崎をまわって今度は西海岸に沿って北上して葉山に戻るという時計回りのコース。朝の用事を済ませてから出ても夜に家に戻れるのと、車であれば寒くないことから、冬場の半日自由が利く日に何度か来たことがあった。
だから走り慣れたコースのつもりで考えていたけれど、終えてみればこんなにも見逃しや見どころがあるとは予想しなかったし、季節々々ごと──それは春夏秋冬の四季ではなくもっと細かい、それこそ一月上旬ならではという──、その表情を変えて見せるのだということをあらためて思い知らされたのだった。
本日のルート(GPSログ)
葉山から横須賀への丘陵越えは退屈だった。僕にとってはまだ寒さのほうが勝っていたし、路肩の狭い道を朝のパンを買い出しに行く葉山の奥様方の車に抜かれなくちゃならなかった。抜かれるのはそれだけじゃない、わざと路肩ぎりぎりを走っているんじゃないかって思う京急バスや、朝から練習に励むたくさんの自転車にさえ抜かれなくちゃならなかった。無言のまま無音で抜かしていく何台もの自転車はまるで背中が「とろとろ走るんじゃねぇよ」と言っているように見え、「だから何っ?」などと神経のいらぬすり減らしをしたところで5秒後にはもう彼らは届かないところにいるのだ。どうせ僕は速く走ることなどできないのだし、きっと大方のロード乗りはそんなことまで思っていない、いちいちつまらない僕の気持ちの軋轢は一緒に走るふたりには言わずにおく。
池上から急な下り坂を経て、汐入から横須賀へと出た。三浦半島の東西をつなぐ主要県道でありながら路面にはドーナツ状のくぼみが彫られているほどだった。そんな道でも乗用車や京急バスやロードバイクは日常のまま走り抜けていた。
横須賀に出ると今度はただただ広さに驚く国道16号に出た。地元の埼玉じゃ国道16号などとても走りたい道ではないし、代わりの道もいくらでもあるので入り込むことがないけれど、ここでは道がこれしかないから仕方がない。さらに海側の道があるときはせいぜいそれを利用した。そうやって横須賀市街地を走りながら、僕らはうみかぜ公園に立ち寄ることにした。
公園では消防の出初式があるらしく駐車場への出入りを制限しているようだった。僕らは自転車を押してわきの歩道から岸壁へ出た。園内に入れば岸壁では多数の釣りざおが海へ向かって並び、公園のバスケットゴールには何度もミドルシュートの練習をする若者がいる、ふだん通りの光景だった。
ここで僕は岸壁からものの見事に海にコンデジを落とし(記事:
カメラと縁がないということ……)落胆と周囲の注目を集めるわけだが、僕はこの公園に立ち寄ったのは初めてで、目の前の猿島や遠くに見える横浜や房総半島の景色を、釣り糸を投げ込む人たちのあいだに入ってのんびり眺めることも悪くないなと思った。
国道16号は東京湾をえぐるように描く観音埼への地形にそって海岸線を進んだ。街路樹がヤシの木になれば海に来たという気分が高まる。海なし県埼玉に住む僕などはなおさらだ。伊豆半島の伊東あたりを行く国道135号もこんなような演出だったななどと思い出した。
走水──ここまで国道16号としてやってきた道は、見上げた青看にも示してあるように県道209号に変わる。道なりは変わらない。さっきは道端に国道16号のキロポストもあった。1kmくらいだったように思う。走水の交差点がつまりは国道16号の起点である。それを示すものを何か見つけられないかと、赤信号で止まっているあいだに見回してみたもののなにもない。あるいは自転車を降りてくまなく探してみれば0キロポストがあるのかもしれない。いずれにせよ東京大環状250km以上の道がここからはじまる。
もっとも何か見つかったとしても、カメラを取り出してぱっと写すことはできない。もうコンデジは手元にないのだから。
僕らは観音埼公園で小休止したのち、地形に沿って一度浦賀に戻るようにぐるりと回り、また海沿いを久里浜に向けて南下した。開国橋を通過すると東京湾フェリーの金谷港行きが停泊しているのが見えた。
フェリーターミナルにそれてみた。船はいい。旅に出発する非日常を演出してくれる。たとえ東京湾フェリーの35分の船旅でもそれは同様だ。
フェリーはちょうど車の積み込みを始めたところだった。自転車も一緒に乗り込んで手すりにくくりつけられるのだ、そんな話をした。Uさんは都内の自宅から自転車とこのフェリーで東京湾を一周する二百キロを超える自転車旅をしている(ブログ:
[2012/11/03]今度はまわれたよ東京湾)。もちろん愛用の小径車で……すごい人だ。Mさんは自転車でフェリーに乗るという旅のムードだけじゃなく、Uさんの東京湾一周に感化され話を聞いていた。
野比で国道134号に合流したのち、有数の海水浴場を通過しながら三浦海岸を目指した。
三浦海岸で国道134号を離れるとぐっと交通量が減り、周辺の雰囲気もがらりと変わる。この展開が僕は大好きだ。
ここまであった住宅やコンビニやファミレスはまるでいつまでのものだったかと振り返るほどぱったりとなくなり、漁船の引き揚げられた小さな港とダイコンとキャベツの畑が延々と広がるばかりの風景になった。
漁村にはダイコンが並び吊るされていた。僕ら3人はこんな風景のなかをのんびり走るのがいちばん性にあっているんだと思う。
金田漁港を過ぎると三浦の台地へ駆け上がる長い上り坂になる。これをゆっくり上ると背後にこれまで水際伝いに見て来た景色が小さくなり、俯瞰できるようになった。高台から眺める東京湾は見事だった。とはいえ坂を上りながら余裕はなかった。すごい景色だなと瞬時振り返りつつもひたすら坂を上った。
坂を上り切ると剣崎へ向かう分岐がある。僕らを追い越していく多くのロードバイクがまっすぐ坂を下る道を、僕らは左手への分岐に入った。
僕らが走る高台は一面ダイコンだった。その葉で深緑色に染まった台地のなかの細い道を行く。見事なまでの染まり具合はダイコンの最盛期なのかもしれない。
道すがらダイコンを満載した軽トラとすれ違った。
Uさんがこのダイコン畑に興味を持ち、軽トラのおじさんと会話を交わした。ダイコンは青首ダイコンが中心だとか、港のほうに干してあったのは白首ダイコンだとか、こう見える畑は実はダイコンとキャベツを交互に植えている、などと畑のいろいろな話をしてくれる。そんなここは品川や新橋、日本橋まで一本の電車で日常的に行ける神奈川県なのだ。
ダイコンは今が時期だという。あいだに植えているキャベツもそう時期を違えずに刈るらしい。僕が一面ダイコン畑だと思っていたなかにはキャベツ畑もあるということか……。軽トラのおじさんは畑を眺めながらうまそうに煙草を吸った。
突端の高台に建つ白亜の剣崎灯台は青空に吸い込まれるようだった。あまりにも静かなその場所は僕らのほかには同じように自転車でやってきたカップルがいるだけだった。あれだけたくさんのロードバイクがこの台地に力を込めて上ってくるが、どうやらほとんどが下り坂に突入していってしまうようだ。確かに僕だってひとりで何度かここを走ったときも、同じようにそのまま下り坂へ突入していった。
三者三様で写真を撮ったり景色を眺めたり灯台の周りを歩いてみたり好き勝手に過ごした。それこそそのままにしておけばきりがないほどだった。太平洋の海原と高台の壮大な景色──そこは対岸の房総半島をはっきりと見渡せ、東京湾へと出入りする船舶をまるで一手に掌握して眺めているような気分だ──、そしてこの白亜の塔を僕らがひとり占めにしているようだった。
サイクリングの途中であることを忘れてしまいそうだから、ここでひと区切りつけるためにも集まって写真を撮ることにした。真っ白な壁をバックにセルフタイマーをセットした。
三浦半島突端の造形は魅力的だ。複雑に入り組んだ入り江に小さな漁港や観光客はおおよそ知らないであろう海水浴場が閉鎖的に存在している。高台から見ているとそれらが瞬間瞬間で垣間見えた。
剣崎灯台とダイコン畑を楽しんだわれわれは高台の坂道を一気に下った。そこは江奈の入り江だった。太平洋からほんの少し入っただけの小さな湾内は驚くほど静かだった。揚げられた漁船を片目で眺めながら入り江に沿う緩やかなカーブを気持ちよく駆け抜けた。
県道は毘沙門湾を高台で駆け抜ける。つまりこの先また上り坂だ。
ゆるゆると上り始めた道の先に、Y字に分岐した急な坂道があった。僕らはその道へ入った。
現在の県道215号は毘沙門湾に面した断崖の高台を毘沙門トンネルを要するバイパスで貫いている。このバイパスができたのはいつだったのだろう。先日、たまたま昔のロードマップを眺めていたら、この毘沙門トンネルのバイパスはまだ描かれていなかった。
急な上り坂を少し上ったところで、毘沙門湾に降りられる狭い道がある。海に下りてみましょう、とその細く屈曲したセメントで塗り固められたような荒い道に入っていった。
見渡す限りの急峻な断崖は隆起した地層が垣間見える手つかずの地肌だった。浜はどこまでも岩場が続いているように見えた。人の生活すらないこの場には当然ながら電柱も電線もない。
釣りなのか、散策なのか、それともこの自然景観を味わいに来たのか、10台より少し多いくらいの車が止められていた。多い台数ではないけれど、ここに来るためにあのわかりにくい分岐を入り、すれ違いも困難な狭く路面の悪い道路と、海岸へ出るスリップしそうな急な坂道を経てここにいるのだから、知っている人はよく知っているものだ。
岩場の広いところに車を置き、ドアというドアを開けて気持ちよさそうにカップヌードルをすすっているおじさんが声をかけて来た。──どっから来たの?
あれやこれやと話をした。おじさんは何をしに来たのか気になって何度か聞いてみたが、僕の聞き方の要領が悪かったようで的を射た答えは得られなかった。僕らが自転車を転がしたすぐそばに小さなラジコン飛行機が置いてあった。その主かもしれない。
今日は城ヶ島で昼食にしましょうと話していた。しかしいつもながらの楽しい寄り道サイクリングですでに13時になろうとしていた。さすがにおなかも空いてきたし、元のルートに戻ろうと海からの急な坂道を押し歩いた。
再び高台に戻り、さらに坂を上った。
道はセンターラインがないほどだけど、昔からの道路で路線バスも走る。おそらくバス同士のすれ違いはできないからどこか決められたすれ違いの場所でもあるのだろう。バイパスのないころから走るバス路線が、そこの生活を支えるために路線を変えずに走っている。バイパスの道には集落はない。
坂道にどこかの家から出て来たトラックが入ってきた。トラックの荷台には子供たちが乗っていた。どこへ行くのだろう。坂を自転車で何とか上る僕を見て笑っているようだった。彼らの笑顔がまぶしかった。
高みに上れば上るほど驚くほどのダイコン畑が目に入った。いまや三浦半島でダイコンやキャベツを作っているところはごくごく少ないといわれるから、おそらく大半はこの一角に集まっているのだろうと思った。それほどまでの一面の畑だった。
上ってきた道はやっとピークを迎えた。この先風力発電の風車が2機立っている宮川公園へ向けて畑のなかの細い道を下っていくことにした。
海へ向かうような下り坂はさぞ気持ちいい、自転車乗りであれば一気に下ってしまおうとアドレナリンが出ようところだったが、その景観はまたしても僕らの足を止めた。
ダイコンとキャベツの畑のなかを縫うよう、屈曲して下っていく細い道の造形美に思わず吸い込まれて見入ってしまった。僕が写真を撮り始めるとまた三者三様で写真を撮ったり景色を眺めたりを始めた。
──なんて楽しいサイクリングなのだろう。
ようやく城ヶ島大橋を渡った。Mさんは有料道路の城ヶ島大橋を、自転車は無料でそのまま通過するのが気分いいと言った。僕はあまりの高みに目がくらむので道の中央に寄りながら走った。橋の中央で片側規制の工事をしていた。僕が峠の上り坂の途中でなぜかよく出会う片側規制を思い出した。今日だって橋の中央へ向かう上り坂の途中だった。
ぐるりとループ線をまわりながら下り坂を行き、城ヶ島の先端にたどり着いた。食事を決め、腰を落ち着けたときはすでに14時を過ぎていた。
途中、軽食の休憩などをはさんだわけではないから、みんな空腹だった。
食後、城ヶ島灯台へ散歩した。城ヶ島全体が人を集めた時代は過ぎ、うら寂れた雰囲気は禁じえなかった。それでも眺められる太平洋の大海原は変わらず存在していた。
うっすらと富士山や伊豆大島が見える。
城ヶ島の観光資源はこれだけだともいえるし、これで充分だともいえる。誰もが海を遠く眺めている。
後半は渋滞のまっただなかだった。
いつもそうだ。たいていは車でアプローチしてしまう三浦半島だけど、帰りのこの渋滞に巻き込まれると三崎口駅から輪行してしまうほうがアリなんじゃないかと思う。そして来れば寄ってみようとルートを引く荒崎や佐島なども渋滞にうんざりしてキャンセルしてしまう。いつだってそうだ。
渋滞は城ヶ島大橋と三崎漁港から来る道が合流するあたりから始まり、国道134号に合流する引橋、三崎口駅、荒崎への分岐合流、高速道路への右折がある林交差点、佐島への分岐合流などなど、流れたり止まったりを繰り返しながらダラダラと進む。全体的に見れば大渋滞だ。よくここで車を運転する気になるななどと思う。
そして案の定、今日だって荒崎や佐島を走ることはやめてしまった。
葉山町に入ればなぜか車も流れ始める。
国道134号は海沿いに出て、江の島が遠くに望めた。空はずいぶんオレンジ色に染まっていて、一日サイクリングを楽しんだ気分と疲労を鎮静するにはいい絵だった。夕暮れに染まる景色のなかを特にしゃべることもせず考えることもなくシンプルかつだらだらと流せば身体も感性もフラットになる。海という情景がさらに相乗効果を生んでいた。メロウなジャズをBGMにするよりも単純でわかりやすい。
夕暮れに間に合った。
駐車場で自転車を片づける前に浜の夕暮れを眺めることにした。
冬の夕暮れの海は寂しかった。人が少なく寒々しく見えた。僕らからすればこの時期でも海に入ることに恐れ入るカヌーイストもすっかり片づけを終え、残っているのは浜を散歩する人くらいだった。
夕焼けに富士山が浮かび上がった。江の島も見える。
また来てくださいね──城ヶ島の食堂のお姉さんに言われた。そうだ、また来よう。
※今回は(今回も……いつもながら)例によってお二方からの写真も使わせていただいております。
ご一緒いただいたお二方のブログはこちら。
■Uさんのブログ:
チャリでチャリチャリいくよ〜
■Mさんのブログ:
mpmg69