自転車に乗ろうと思う。朝、家族の都合を確認した末、思い立った。
しかしどこへ行くのだ?──あわてて材料を探す。こういうときはツーリングマップルが手っ取り早い。
ツーリングマップル「鴨川」ページ
麻綿原高原のおすすめルート
準備もほとんどないまま、僕は木更津の街を走り始めていた。
前日、古峰ヶ原をサイクリングしてきたのだから、空気を入れたり注油をしたり、簡単に準備くらいはしておきたいところだったけれどそんな時間がなかった。まあ数日間の自転車旅を考えれば、そのあいだ空気も入れなければ注油もしないというのが日常なので神経質になるほどではない。やれたならやりたかったという程度の話である。
木更津市内を流れる小櫃川に沿いつ離れつ、上流へと走っていた。まずは久留里へ向かった。
ツーリングマップルにおすすめロードとして描かれていた麻綿原高原(まめんばらこうげん)は、房総半島の内陸にある。途中にある寺院のあじさいが有名で、あじさいの咲く時期になると道は一方通行になるという。きっとそれだけ交通量が増えるのだろう。
場所はおおよそ養老渓谷や粟又の滝の南、大スギで有名な清澄寺の東に位置する。とはいっても近接の観光地と簡単にセットにできるかというとそうでもなく、麻綿原高原に通じる道にどちらからか入り全線走らなくてはならない。途中流入や途中流出ができない道のようで、それは裏を返せば一度入ってしまうとエスケープのない道、ということだ。
せっかくそこまで行くのであればいくつか立ち寄りどころも考えてみようと思う。
久留里駅前に着いた。
駅舎は絵になる木造。ホームには真新しいステンレス製の気動車が折返しの出発を待っていた。ちょうど発車時刻だったらしく、僕がカメラを準備するあいだに木更津に向けて出て行ってしまった。
今現在、JR久留里線はここで折返し運転を行っている。毎朝、NHKの鉄道運行情報で久留里線の不通情報が字幕で出る。ずいぶんと長いなと思いつつ、どういう状況になっているのか、駅に来れば情報があるだろうとやってきてみた。
木造駅舎が絵になる久留里駅
久留里線不通の案内
路盤流出──。夏に六十里越をサイクリングしたとき、只見線で同じ光景を見た。JRは只見線の復旧費用を試算し、「復旧は総合的に判断」としている。それは「もう二度と復旧させないかもしれないよ」ってことでもある。
となるとこの久留里線はどうなる?──ここには三週間程度で復旧を見込んでいることが書かれているから大丈夫なのだろうけど。
久留里は水の街。街なかにもわき水を汲める場所があるが、今や駅前ロータリーに水汲み場まで完備されている。
僕は、いつもここにサイクリングに来たときにボトルのなかが満タンになっている。今日もそうだ。残念ながらここ久留里の水をボトルに汲んでサイクリングを楽しんだことがない。忘れてしまうのだ。いつも久留里の駅前までやってきて、ボトルを空にしておけばよかったのにと初めて気づく。
久留里駅前の水汲み場
久留里を出発して久留里線に沿って走り、終点の上総亀山を目指しつつ亀山湖へ行ってみる。
線路に近い国道410号を行き、久留里線を見ながら走ろう。
平山駅を通過した。国道から遠目に見るとまるで鉄道模型のような光景だ。この駅に列車が止まる光景はいい。しかし今この駅には列車はやってこない。残念だ。
しばらくいくと国道に通行止めのフェンスが設置されていた。亀山方面へ向かうには迂回をしろと言う。路盤流出区間は上総松丘駅と終点の上総亀山駅のあいだのようだが、そこに向かうにあたって並行する国道までもが通行不能ということのようだ。
結局亀山湖へ出るのにずいぶんと迂回させられた。松丘の路地に回され、県道に回され、亀山ダムへ戻ってくるように走った。
列車の来ない平山駅
通行止めの国道
最近になってダムがあれば集め始めたダムカードがここ亀山ダムでももらえるようだと聞いた。たいていはダムの管理事務所で配っているので管理事務所に立ち寄ってみることにした。
しかし、管理事務所の駐車場のゲートはぴたりと閉ざされていた。ひと気もない。
──あれっ?カード配布ダムではなかったかな。
おぼろげな記憶なのでネットで情報を調べてみた。するとダムカードは配っているけれど土日祝は除くとあった。いささかの落胆。
意外に夢中になって集めようとしているな……。ふとそんな自分に気づく。
亀山湖を過ぎると、いよいよ麻綿原高原への道へ向かうために老川という場所へ向かった。
このあたりの国道や県道は走っていると自然とセンターラインがなくなることが多い。トンネルだって素掘り拭き付けが残っている。場所によってはまるで林道のよう。そういう意味では地図にしっかり描かれた道で不安なく林道気分が楽しめる。
上り下りをくり返しながら東へ向かう。ほどなくして老川十字路が見えてきた。そして麻綿原高原へ向かう道は十字路の手前から細い道として分岐していた。
こういったよく知らない道、そしてわかりにくい道に限って言うと、GPSマップさまさまである。地図だけではどうしたって入り込むのに半信半疑になってしまうし、今目の前にある道だってそうだ、確信が持てなければ入ろうと判断するにはやや微妙な道でもある。
でもGPSマップで見る限り間違いはない。
その道は僕に向かって狭くて急な上り斜面の姿を見せていた。
麻綿原高原への入口
ところでこの入口、つまりは老川から入る側は今の時分であれば問題はないけれど、どうやらあじさいの季節になると一方通行規制がかかるようだ。おそらくここから途中までは行けるのだろうけど、どこかで進入禁止が科せられる。あじさいの季節を狙うならこの道は反対の会所というところから入ってくる必要がありそうだ。
入っていきなりの急坂だった。すぐのところに農村集落があり、ここの道がわかりにくい。案の定道を誤り、あやうく農家の一軒の門をくぐりかけた。この手の場所では番犬を飼っている家が多い。気配を感じて猛然と吠えたてられることがあるが、幸いなことにここでその目には遭わずに済んだ。けたたましく吠えられるのは気持ちのいいものじゃない。
誤った道はあまりに細かな道が入り組んでいてそれらはGPSマップにも表示されないので、GPSマップ上に示している自分で引いてきたルートに近づこうと進んだ。やがて小さなT字路に行きつき、本来の麻綿原高原への道に突き当たったと思われた。こういう場合はナビ機能があるほうがいいななどと感じる。
農村集落を過ぎるといよいよ一本道になった。
道は細く深い森林のなかを進む。森は植林されたスギのようだ。勾配はなかなか急で、路面は濡れ、落ち葉や枯れ枝がひどく散乱している。車の通行が多少なりともあるのだろう、落ち葉や枯れ枝は中央と左右に寄っており轍を残していた。その轍は決して広くないから多くは軽トラなのではないかと想像した。
全体的に日が当らないせいか路面がかなり濡れている。濡れているにしてもいつの雨だろう。それとも染み出しだろうか。おまけにところどころコケも出ていることから日当たりが悪くジメジメしていることを物語っている。路面濡れ、落ち葉枯れ枝、コケといったら転倒の三大要素の勢ぞろいだ。急坂でトルクがかかり過ぎないように進んだ。とはいってもそんなことはとても難しい。疲れて立ちこぎなどするとそのままずるっと滑る。
ときどき「麻綿原高原 天拝園」と書かれた立て札が現れる。これがなければ道を間違えているんじゃないかと疑うほどだった。
立て札には距離も書かれていて、確か最初が8kmと少しくらいだった。しかしこれが8kmだろうかと思うほど道が長く感じた。ただただ続く上り坂のせいか、滑って走りにくい狭くて暗い道のせいかわからないけど、なかなかどこにも辿りつかない道に疲労が溜まっていった。
しかし驚くほどの秘境道だ。道としてどこを走ってどこに抜けるかがわかっているから不安はないけれど、紙の地図一枚で走っていたらきっと不安になるだろう。道も車が走る様子があるけれど対向車が来たらいったいどこですれ違うのだろうというほどの狭さだし、店はおろか、人家も自販機もない。だから電柱も電線も来ていないようだ。かなりの秘境感である。この近辺では房総半島の内陸を東西に横断する嶺岡中央林道が取り上げられるが、秘境感、ひと気のなさならこの道のほうがうわ手だと感じた。
秘境感満載の道
やがて寺院が見えた。どうやらここが天拝園であじさいの名所らしい。──が、どれがあじさいの株なのかが僕にはよくわからなかった。花が咲いていなければ僕には何も判断が付かない。
天拝園を過ぎると道はこれまでの南から東へ向かって進路を変えたようだった。だがそれもGPSマップを見てわかったこと。走っているだけではどこへ向かっているのか把握できない道だった。
それから道は平坦と下り基調に変わった。とはいっても相変わらず狭く屈曲し路面は濡れて落ち葉や枯れ枝があるから走る速度を上げることは容易ではなかったし、上り返しも少なからずあった。だから画期的に早くなるということがない。
周囲は変わらず木々に覆い尽くされた道だった。が、一瞬だけ木々が途切れまわりの山々が一望できる時がやってきた。広く遠く、緑に覆われた山々が連なって見えるだけだった。海も見えなければ集落もなかった。どこかとんでもなく山深い場所に入り込んでしまったように錯覚した。しかしここは房総半島、標高せいぜい300m、地形でいえば周囲は山というより丘である。
ほんの一瞬開けた眺望
僕は山々を眺めながら一枚だけ持ってきていた補給用のビスケットを口に放り込んだ。実はかなり空腹感を覚えていた。自転車に空腹はよくない。ひどく疲れた感じがした。
最初で最後の一枚だけのビスケットが役に立ったのかどうかわからないまま走った。麻綿原高原の道はやがて県道に突き当たり、終わった。
人里から離れた静かな道という意味ではかなり楽しめる道だった。秘境度が高いわりにはアプローチが大変なわけでもなく、いい場所にある。可能ならこのあと外房の海へ抜けていければ風景展開も楽しいサイクリングになること請け合いだと思う。ただ僕には少し勾配がつらかった。あるいは空腹による疲労のせいもあるかもしれない。
僕は県道を老川に戻るように走った。車の少ない走りやすい道だったが途中急に車が増えた。路上駐車も多かった。どうやら粟又の滝だった。人も路上を歩き、走りにくくなった。通行人の誰かが僕に「おい頑張れよ〜」と言った。
粟又の滝の混雑をそのまま静かに通り過ぎた。興味がわかなかったのは、立ち寄ったことがあったからか、あまりの人出に興醒めしたか、空腹で意識すら飛んでしまっていたか、よくわからなかった。さらには老川を過ぎ、養老渓谷の前を通っても僕はそのまま走り続けた。養老渓谷も同じように人と車が入り乱れるように往来していた。
ビスケットが空腹の足しにならなかったのか、それとも足しにはなったがそれでは満たされなかったのかよくわからないけれど、そのあとの行程があまり記憶にない。気づくと国道410号を北上し小櫃に近いセブンイレブンでサンドイッチを食べていた。養老渓谷から小湊鉄道沿いに進み月崎から県道で久留里に抜けたこと、そのときにまだ上り坂があるのかとひどくうんざりしたこと、以前見たときには橋脚だけだった建設中の高速道路の桁と路盤が出来上がってつながっていたのを見たことくらいは記憶に残っていた。
サンドイッチを勢いで食べ終え、甘い缶コーヒーを飲み終えるとなんだかずいぶん元気になった気がした。木更津からやって来たときは小櫃川に近いところを走ってきたので、帰りは久留里線に近いところを走って行こうと思った。
僕は木更津に向けて最後の10キロを走った。
本日のルート(GPSログ)