個人的にはずっと憧れを持っていた場所。なにか具体的な魅力を抱いていたわけではないのだけれど、この道を通ってみたいと思い続けていた。
そして今年の夏の18きっぷを手にし、いよいよ出かけることになった。
今回のルート
群馬大津から湯田中。
ふつうはだれも18きっぷでは行かないのだと思う。
サイクリングの距離にすれば60キロにも満たない。対して列車に揺られている時間は、行きが群馬大津までの4時間弱、帰りが湯田中からの9時間弱。どちらが主題かわからないほどだ。
長野新幹線の開通と同時に廃止・分断されてしまった信越本線で直接高崎に戻ってくることができなくなってから、長野から在来線で帰ってくるには松本に出て中央本線を経由しなくてはならず、一大鉄道旅行を組まなくてはならなくなった。もちろん18きっぷに固執することなく新幹線に乗ってしまえば大宮まで1時間と少しだ。
それでも行きに使った18きっぷをできるだけ有効に使いたくて──おまけに列車の時刻を調べてみれば、帰ってくることができそうなのだ──ずっと走ってみたいと思っていた道のサイクリングを長大鉄道旅行に載せる計画になった。
こだわりでもなんでもない。輪行費用削減のただの固執。
群馬大津駅に着いたのは8:56。自宅を4時半よりも前に出て3本の列車を乗り継いできただけなのにこの時間だった。
吾妻線の列車は地元客とそれほど多くない観光客。観光客は長野原草津口でぱらぱらと降りていく。群馬大津の駅で降りたのは僕を含めて3人だった。3人とも輪行袋を持っていた。
まだ暗い時間 われながらよく起きた
群馬大津駅 片面ホームの無人駅だった
特に帰路に無理のある輪行計画だから、走りたい道がピンポイントのサイクリングだ。だから乗り始めればすぐに上りが始まり、ただただ上るばかりだ。
長野原町大津の交差点が今日走る国道292号の起点。ここから2,100メートルを超える標高まで行くわけだ。僕には頭がくらくらしそうだ。
大津交差点 すべてはここから始まる
しかし毎日あきれるほどの高温注意報の連続だ。きっと今日だってそうなのだろう。だから涼しそうなここへ期待してやってきたというのもある。
上り坂は淡々と続いた。観光客の自家用車やバイク、観光バスが絶え間なく僕を追い抜いていく。熱気とともに。吾妻線の観光客の少なさから草津もいよいよ寂れたかと思ったりしたが何のことはない、車を使っているだけだった。吾妻線は観光に使うには不便で時間もかかり過ぎた。草津へ向かう道は吾妻線とは対照的に大盛況だった。
交通量の多い上り坂は多くがそうであるように登坂車線が設けられていた。登坂車線が現れると勾配のきつさもいよいよだと聞いていた。まさにそのとおりだった。止まりそうになりながら自転車に乗ってふらつく僕を軽自動車がキックダウンしながら追い越していった。ツーリング日和のバイクが人力の無意味さを笑うかのようにかすめていった。観光バスの乗客が眠たそうな目で哀れんで見ていた。
草津温泉の中心街から少し手前にある道の駅に寄って脚を休めることにした。多くの観光客もここに入ってきておかげで駐車場は空きスペースを探す車で入り乱れていた。
冷たい炭酸飲料を買って一気に飲むとそれまで溜めていたわけでもなかろうに汗が一瞬にして噴き出した。いつでもこんなものなのだろうか、期待していたよりも圧倒的に暑い。
標高1,000mで29℃、標高1,200mで26℃
草津温泉の中心に入ると、湯畑に寄ってみることにした。とりあえず有名なところだからだ。湯畑に行くには国道から狭い急坂を下らなくてはならなかった。おかげで国道に戻るには下った急坂を上り返さなくちゃいけない。
やはりあれだけの車やバイクやバスに抜かれただけのことはある、温泉街は人でごった返していた。でも観光客目線になって自転車を押して歩くとなかなか楽しかった。温泉の街並みも楽しそうだし、いい活気に自分自身も包まれた。
湯畑に着いた。湯畑は僕にはぱっとしなかった。こんなもんだったっけ?──10年以上前に来たことがあるのだ。もっとお湯があふれんばかり流れ出していて一帯はもうもうとした湯気に包まれていた。それは記憶違いだったか。少なくとも目の前には木製の樋を流れて落ちていく、せいぜいその程度のお湯が見られる程度だった。
温泉街をそぞろ歩くのは楽しくもあったけれど、今日の主題は道だ。国道で一番高いところを通る国道だ。坂に自信があるのならのんびりするのもいいかもしれないが、坂が苦手な僕としてはいつまでも温泉ムードに浸っていては山道を越える時間を失ってしまうことになりかねない。温泉街の一方通行に右往左往しながら、僕は国道に戻った。
草津温泉を過ぎてから交通量が減ることを少し期待したがそんなことは考えるだけ損だった。それもそうかもしれない、僕自身もこの道に魅力を感じてこうしてやってきているのだ。おまけに草津、万座、白根山、志賀高原と有数の観光地が目白押しなのだ、草津温泉までくれば誰だってその先へも足を運ぶのは当たり前かもしれない。
草津温泉を出発すると、草津のスキー場の中を進んでいるのがわかった。緑色の斜面にリフトがかかっているのが見えた。
坂道はきついまま続いていた。草津温泉までの道での登坂車線のある区間と同じくらいの斜度も結構あった。だからなかなか進まない。
やがて白根火山ロープウェイが見えて来ると、いよいよ僕が期待していた道が始まった。
一種非現実な景観──火山地帯、森林限界。
ここまで来るのにずいぶんかかったような気がしていて、つらいばかりでいささか飽き飽きしていたところだった。
噴出する硫黄ガスが危険なので駐停車するなと何度も看板が出ている。確かにものすごい硫黄臭でまるで乳白色の温泉にでも浸かっているようだ。そして岩だけがごろごろ転がる景観。
頭上をゴンドラが通過していく。冬はスキー場でそのまま使っているのだろう、スキーを納めるラックがついている。乗客が見下ろしている。確かにこの景観を上から眺めると壮観かもしれない。
木が減ってきた。硫黄ガスの影響を受けていないであろうところも草ばかりになってきた。おかげで遠くまで見渡せる。
日差しは直射日光が背中に、加えてアスファルトからの照り返しが容赦なく全身に注ぐ。坂も多少勾配がゆるくなったような気がするけれど、息が落ち着くには程遠かった。苦しいはず。それなのに淡々と上った。なぜか上り続けた。この景色の中を行く道を走り続けていることが、僕にとって興奮状態を起こしているのがわかった。楽しいとか気持ちいいとかすごいとか、そういう直接的な思いでは感じないのだが、妙に興奮している自分がわかった。
見渡せる景色はこれから進む道を先々まで読み取らせた。続く上り坂を見せ付けられ、いつもであれば「ウンザリだ」と書くはずのつづら折が、景色と一体になって僕を興奮させていた。まるでツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアの山岳ステージのゴール近くのようだと書きたいけれど、残念ながら僕はヨーロッパに行った経験がない。それでもテレビの映像越しに見ているそれらを思い起こさせるには十分の景観だった。
白い山肌を見せる白根山が姿を見せ始めた。
白根火山ロープウェイ山麓駅
白い山肌の白根山
白根山ドライブインは車でいっぱいだった。もう入るところがないんじゃないかと見えるのにどんどん車が入ってきた。僕も入って休憩することにした。
炭酸飲料を買って飲むとまた一気に汗が出た。おやきを買って食べた。もう昼になろうとしていた。お腹がすくのも当然だ。
ここ白根山ドライブインから立ち寄る有名なスポットのひとつ、湯釜には結局行かなかった。
クリートつきシューズで山道を歩くことを避けたいと思ったか、ここまでの登坂で体力をすっかり使い果たしてしまっていたか、ひとり旅で上ってきた道から一転して観光客でごった返すドライブインで急に人酔いしてしまったか、何でだろうともかく湯釜に向かうことを断念した。おかげで日本一phの高い、やや白みがかったエメラルドグリーンを見ることはなかった。
白根山ドライブインを出て、万座道路との交差点までは豪快な下りだった。これほどの下りは今日はじめてだ。
万座スキー場のリフト降り場がすぐ目の前に見えた。こんなところなのかと思う。「志賀万座ルートって直線だと2kmなんですすよね」──映画私をスキーに連れてってのセリフを思い出した。
しかしそこからは下ったことをがっかりさせられるほどの上り返しが待っていた。
地図で見ると山田峠と渋峠のふたつがルート上にある。地図的視点では山田峠のほうが重要なのか渋峠が記載されていないものも多い。僕のNV-U37にも渋峠は文字で表示されることはない。
上り返しは思いのほかきつく、まず山田峠を意識して上った。道はピークを越えまた下り返した。遠くまで見通せる道は先を見るとまた再び上り返しがあるのが見えた。うんざりしながら下るが、この道とその周りの景色が興奮を呼び起こす。体は坂を嫌がっているが興奮する気持ちが進み続けようとする。ナビを見た。山田峠の文字はすでに後ろに過ぎ去っていた。
どうやら山田峠はさっきのピークらしい。上り返しながらつづら折に入るとこれまで走ってきた道が見て取れる。峠越えのサイクリングに行ってもなかなかこういった道はない。
ようやく上りきるとそこには「日本国道最高地点」の碑があった。
万座スキー場のリフト
眼下はるかに万座の温泉街
おそらく右奥の道路の最高点が山田峠
数百メートル進むと渋峠に着いた。ここも車で混んでいた。
さっきの国道最高地点にせよ、ここ渋峠にせよ、何だかここに来たことがどうでもよくなっていた。前日、家族には「渋峠にサイクリングに行ってくる」と告げて出てきたから、気持ちのなかでは目標点であり目的地であったと思うのに、ずっとこの国道292号を走っていたらいずれの場所も国道上のいち地点でしかないと思うようになった。
だから興奮している気持ちが、さらに先へ進もうとせき立ててくるのだ。
渋峠のホテルの前にお決まりのように自転車を置き、自分のための記念写真を撮ったらあとはすぐに自転車にまたがった。ホテルで百円で発行してくれる「日本国道最高地点到達証明書」もすっかり興味がなかった。
下る。下りは早い。あっというまに空間移動する。長野県に入り志賀高原スキーエリアの一角をかすめながら下っていく。横手山、熊の湯、グリーンの草地と傍らにかかったリフトを見るとゲレンデのコースレイアウトが頭に浮かびひどく懐かしく思えた。赤と山吹色の長電バスとすれ違った。スキーシーズンはこのバスがシャトルバスになる。志賀高原のリフト券を持っていると自由に乗ることのできるバスだった。
長野県側の道は木々に囲まれた高原のなかを行く道だった。スキー場でもある木戸池、蓮池、丸池──水辺を通過すると、木々に囲まれた雰囲気とあいまってさすが日本の名だたる高原リゾート地だとうならされるものがあった。正直、蓮池の交差点では奥志賀方面へ進路を取ってしまいたくなった。発哺、高天ヶ原、一ノ瀬、奥志賀──冬のスキーシーズンにしか訪れたことがない。「もう坂を上る体力はないよ」と昂揚を抑えてみた。
さらに坂を下ってしまえば湯田中はあっというまだった。渋峠から通してわずか50分程度だった。
湯田中駅でまず列車の時間を調べた。
それから駅の裏手に回る。ここに小さいながら日帰り温泉施設があるのだ。次の電車まで20分と少し。さすがに悩んだ。が、せっかく湯田中をゴールに設定したのだし、汗を流すだけでもいいから入っていこうと決めた。実際時計から目を離すことのない入浴はあわただしさに満ちていたけれど、でもいいのだ、このあと9時間弱にも及ぶ列車旅が待っているのだから。
高原道路
蓮池交差点
湯田中温泉